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花の町「三春」で、出会いました

それは、切手との出会いから始まった。
花の町「三春」で、出会いました。

江戸時代、5万石の城下町として栄えた「三春」に行ってきました。

まるで奥州の雪解けの春を、待ちわびていたかのように、梅、桃、桜が一斉に花開くところから、この地方を「三春」と呼ぶようになったそうです。 三春町の郊外、阿武隈山地の丘陵に「高柴デコ屋敷」があります。5軒(本家大黒屋、本家恵比寿屋、彦治民芸、ゑびす屋、恵比須屋)の屋敷が寄り添うように民芸の里をつくる中で、ようやく「三春駒」に出会うことができました。

■「三春駒」。人を惹きつける魅力の謎。

一つには、ざっくりと面取りをしたそのフォルムにあります。シンプルで力強く、しかも無駄がない。あとで実際に測って知ることになったのですが、この「三春駒」の美の秘密を発見!
横と縦のプロポーションが1:1.618の黄金比になっていることです。生物や自然界にあって、見る人に心地よさを与えるといわれる美しさの比率のことで、「ミロのビーナス」のおへそから上下の寸法比や、あの「モナリザ」の顔のプロポーションも黄金比であることはよく知られていますが、「三春駒」も黄金比の美の法則に則っているとは、これは偶然なのでしょうか!?

謎の2つ目は、その色使いにあります。
年賀切手で見たときはセピア系モノトーンの印刷でしたが、実物の彩色はなんと大胆で鮮やかなこと!黒地に赤のライン、目とくつわに白のアクセント、そして彩度の高い群青の鞍、黄地に黒と虎柄をイメージさせる腹掛け模様。これらは、カラー・コーディネートの視点から言えば、くっきりとした明度対比とスプリット・コンプリメンタリー(隣接補色)になっており、ファッションの世界でもよく使われます。このコントラストの強い配色は、生命力や躍動感をきわだたせる心理効果があるのです。

謎の3つ目。正面の胸飾りで金地に赤で描かれている牡丹(?)の花の意味するものは?
資料によると、かつて栄誉ある馬を「御花駒」といい、「この御花駒のように、優れて、たくましく、丈夫に育って欲しいという親の願い(※1)」が込められているのでは?と推測されています。どうやらこの「花」は、「三春駒」のシンボルになっているようです。

そして最後に、「三春駒」謎の4つ目・・・。
いつの頃から「三春駒」は子育て、安産祈願のお守りとして親しまれてきたのか?
それには、伝説に秘められたワケがあります。

■「三春駒」の伝説

「三春駒」には坂上田村麻呂にまつわる伝説があります。

坂上田村麻呂といえば、桓武天皇の御代に征夷大将軍として東北の蝦夷を征伐した人。 歴史では、そのように習いましたが・・・田村地方には(その名の由来か?)田村麻呂伝説が数多く残されているようです。その1つに、こんな話が伝承されています。

延暦14年(795年)。坂上田村麻呂将軍は、大滝根山の洞窟に住む大多鬼丸という賊を討つため京都を発つことになり、清水寺の開祖である僧延鎮は、五体の仏像を彫って、戦勝祈願をしました。そのとき木材の残りから鞍馬100匹を刻み将軍に贈ったところ、将軍はこれを鎧ひつぎに納めて征夷の途につきました。

やがて戦いは開始されたのですが、官兵は京都からの長征の疲れから苦戦を強いられることとなります。 そのとき、どこからか鞍馬100匹が官兵の陣営に走り込んできました。 兵たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、ようやく大多鬼丸を滅ぼすことができたのです。 戦いが終わると、いつのまにか鞍馬100匹の行方はわからなくなってしまったのだとか。

翌日、官兵が帰る途上で、三春近くの高柴村に通りかかったところ、里人の杵阿弥(きあみ)というものが、汗にまみれている1匹の木馬を見つけて拾いました。兵の中から「これは、延鎮作の100匹の木馬のうちの1匹であるに違いない。」との声が起こり、それを聞いた杵阿弥は、残り99匹を自分で作って補っておいたそうです。ところが、3年後。この拾った1匹も、とうとう行方がわからなくなったので、杵阿弥は自分で作った99匹を子孫に残したといわれています。

その後子孫は、この駒を模作して里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ち、子供の無い者も3粒の大豆を餌として木馬に供えると、子宝に恵まれるといわれ、また、ホウソウ、ハシカも軽くなるといって、誰いうとなくこの駒を子育て木馬(きんば)と名づけるようになったそうです。この話は、今も高柴のデコ屋敷に言い伝えられています。

■「三春駒」ブランド誕生の背景

この伝説は、玩具の由来を物語る宣伝として、元禄時代から伝えられてきたそうです。また、もう一方で三春産の馬の優秀なことも以下のようにPRしています。そこには当時、三春藩の置かれていた苦しい経済事情と、馬産振興政策が背景にあったことが察せられます。

「優秀な馬を生み出すことを課題としてきた田村の人々には、それは中途半端な名馬ではいけなかった。権威をもち、由緒を持ち、軍功を上げた名馬でなくてはならなかった。田村麻呂伝説の中には、産馬による振興政策を掲げて苦闘してきた三春藩の人々の思い入れが、幾重にも織り込まれている(※1)」

「三春駒」4つ目の謎を解く鍵は、こうして子育て、安産祈願のお守りのシンボルとなって、伝説の物語の中に秘められていました。そして、その美しい輝きを失わない「三春駒」は、昔も今も変わらず、子供の健やかな成長を願う親の愛を受け、祭や縁日で買われてきたのです。

常に子供の笑顔のそばにいて夢を与えてきた「三春駒」は、まぎれもなく『ブランドの華』と言えるでしょう。

■もう1つの花「滝桜」

三春には樹齢1000年以上にもなる国指定天然記念物のベニシダレ「滝桜」があります。私が訪れたのは満開から4日目で、花びらがひらひら舞い始める頃。石畳で舗装された沿道の脇に、うど、せり、たらの芽などの山菜を売る露天が並び、売り子のおばあちゃんの笑顔を覗きながら、そろそろと小高い丘を登りつめると、突然、青空に大きく枝をひろげた「滝桜」が姿を現します。

東西に25m、南北に18mの枝張り、樹高12m、根回り11mの堂々とした晴れ姿は、まさに「秘すれば花」。感動の舞台でした!三春町には「滝桜」の他にも樹齢200〜400年の名桜が数カ所、町内全体に約2,000本のシダレザクラがあるとのこと。花の町「三春」。「三春町」そのものがブランドとして華やいでいました。

■「三春駒」から学ぶこと

永く伝統の技として受け継がれ、親しまれるものには、人の胸を打つ物語があります。
たとえそれが、経営難から必要に迫られて生まれたとしても、多くの人の共感を得なければ、ブランド物語は成立しません。そして、それが人の口の端にのぼり、伝えられていくためには、媒介となる象徴としてのカタチが必要です。

「三春駒」には、子を思う親の愛と、健やかな成長を願う夢の物語とともに、それをカタチにして伝えるときの、隠された美の法則があります。そして、「花」を愛でる心を町中で育む環境の中で、空気のように自然な存在として溶け込んでいます。

「三春駒」がブランドの輝きを失わず、今日まで生き続けている長寿の秘密を、
そこに見つけることができるのです。

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▼中央公論新社『陸奥甲冑記』澤田ふじ子著 ▼
桓武天皇の平安京遷都が行われた頃。大和律令国家に対立する陸奥・蝦夷(えみし)の首領、阿弖流為(あてるい)を平定するため、征夷大将軍として京都から遠く奥州まで遠征した坂上田村麻呂の武略を描いた物語。
阿弖流為(あてるい)の本拠地、胆沢城のあった日高見国とは、今回、出かけた「三 春」地方のあたり(?)らしく、そう思って読むと「三春駒」の伝説もリアリティが感じられます。一族の平和を守る戦、親と子の愛、そして、命の熱き心が、伝説として言い伝えられることの意味を、あらためて考えさせられます。

▼「高柴デコ屋敷」▼
「高柴デコ屋敷」は、「三春駒」の他に、張子の「三春人形」も有名。
これも元禄時代から、三春藩主の秋田候より手厚く保護されてきただけに、今に伝わる伝統の技と味わいのある表情が冴えています。歌舞伎や風俗を題材にした人形、ダルマや大黒などの縁起物、兎や虎などの動物玩具、お面など実に多彩。これだけ多種多様な玩具と人形が1つの地方で創られるのは、この三春だけだそうで、1本のほおのきの角材から2匹の「三春駒」を制作するプロセスにも驚きの技があります。かつて、この地で活躍した優秀な工芸デザイナー、その職人達はどこから来たのか、それも謎の1つです。

「高柴デコ屋敷」
〒963-0902 福島県郡山市西田町高柴
恵比須屋 TEL:0249-71-3900 本家大黒屋 TEL:0249-71-3176
本家恵比寿屋 TEL:0249-71-3175 彦治民芸 TEL:0249-72-2412
分家えびす屋 TEL:0249-71-3172

インデックス
参考資料 ・平成13年度春期特別展『三春人形と木型』三春町歴史民俗資料館編〜「三春駒の起源と三春駒伝説」藤井典子著
  ・ふくしま文庫『三春駒とデコ屋敷』川又恒一著
  ・『ふるさとの人形たち』三春郷土人形館編
  ・交通新聞社『旅の手帖』2005/4(第29巻4号)
福島県田村郡三春町 http://www.town.miharu.fukushima.jp/gaiyou/gaiyou.htm